行く水の泡ならばこそ消え返り 人の淵瀬を流れても見め

 気の触れたような声がかすかに聞こえた。慶次は足を止め、溜め息をついた。
(秀吉殿も、ひどいことをなさる)
 秀吉が、光秀をずいぶんと嫌っていたのは知っている。前田の屋敷にやってきては、ひとしきり光秀への愚痴をこぼして去ってゆく秀吉を、慶次は何度も見ていた。そのたびに叔父は、よほど馬が合わないのだろうな、と笑っていた。
 だが、よもやこれほど根深いものだとは。
 秀吉は、飄々としていながら、残酷なところのある男だ。だが、その残酷さも、使いどころをわきまえている、頭のいい男でもあった。
 彼は自分を引き立ててくれた信長に、ひどく傾倒していた。半分崇拝していたようでもあった。もちろん、そこには出世欲や打算も少なからずあったろうが、一人の男として、信長を慕っていたことは、疑いない。
(どうしても、許せなかったんだろうなぁ)
 やるせない。秀吉とは長年のつきあいだ。光秀との関係は悪くなかった。どちらの思いもわからなくない。だからいっそう、やるせなかった。
「……ひっこみがつかなく、なってるんだろうよ」
 声にだして呟いた。慶次自身が、そう思いたいのだ。
 あの、朗らかで陽気な猿顔の男に、不快感を持ちたくなかった。彼は気持ちのいい男だ。少なくとも、自分にとっては、そうだ。
 くぐもって聞こえていたうめき声が、静かになった。数人の男たちが、野卑な笑い声を押さえながら、ひとつの幕屋からぞろぞろ出てきた。慶次も見知った顔だった。
 またひとつ、溜め息をつく。そうしないと、唾でも吐いてしまいそうだった。
 続いて入る人影は見当たらない。今日はお終い、ということか。視線を下げ、ゆっくりとまばたきをひとつした。腹に力を入れた。
 背筋を伸ばし、颯爽と歩く姿がまぶたに残っている。誠実で、まっすぐな男だった。真っ白な、穢れを知らぬ男だった。それゆえに、信長を、ぎりぎりのところで拒んだ。拒まざるをえなかったのだ。
 天下のためと割り切ることのできない、不器用な男だったのだ。
 その男が、薄く肉を削いでいくように、蹂躙されていた。
 薄い布で仕切られただけの、幕屋の前に立つ。小さな灯が、消されずに残っていた。
 そっと、布をはぐ。むっとする異臭が鼻をつき、慶次は顔を歪めた。
 ただひとつのわずかな明かりにもほの白く浮き上がる肢体は、あきらかに意識をとどめていなかった。裸身に剥かれたまま、上掛けも掛けられず横たわる、投 げ出された腕も、脚も、漆黒の髪も汚物と精液でどろどろに汚れている。側に無造作に置かれた桶は、おそらく水を、気休め程度にぶちまけたのだろう。何度も 吐瀉した形跡が痛々しく、慶次は反射的に目を背けた。
 目の奥が熱くなった。泣きたかった。
 誠実で、まっすぐな男だった。真っ白な、穢れを知らぬ男だった。
 羽織を脱ぎ捨て、その身をくるみ込んだ。思ったよりもずっと小さかったことに、初めて気が付いた。うつろに薄く開いたままの目を、そっと伏せさせた。てのひらに細く掛かる呼気に安堵した。
 抱き上げると、その軽さが、また悲しかった。
 そのまま足早に幕屋を出た。誰かに見られるだろうが、構わなかった。秀吉に報告が上がるだろうが、構わなかった。これで自分の首を刎ねるというならば、秀吉がそういう男だったというだけだ。
 自陣に戻り、湯を命じた。羽織越しにも、彼の身体は冷え切っていた。
 乱れた髪に触れてみた。細い房に固まった髪は、慶次の指で折れ曲がり、戻らなかった。
 またひとつ、溜め息をついた。


 結局、慶次に咎めはなかった。近くの田から、光秀の首が見つかったと聞いた。後で調べると、あの時慶次を見たという者はひとりも出てこなかった。ただ、何人かがささいな喧嘩で死んでいた。
 見逃してくれたのだ。慶次はそっと、秀吉に感謝した。
 慶次は何事もなく屋敷に戻り、叔父と叔母に挨拶をすませたあと、隠れ家のような別邸のひとつに篭った。下働きの女は昔からのなじみで、口が固い。下手に噂がたって、叔父にも迷惑をかけたくなかった。
 勝手口から姿をみせると、飯を作っていた女が顔を上げ、笑った。
「どうだ」
「ずいぶんよくなりましたよ。あたしが起こしてあげれば身を起こせるくらいにはね。まだ疲れやすいみたいで、すぐにお眠りですけど」
「そうか。すまねぇな」
「慶次さんの頼みですから、無碍にはできませんやね。それに、なにしろ馬鹿みたいにきれいなお人だから、苦にもなりませんよ」
 おどけて笑う。慶次もつられて破顔した。
「そうだ慶次さん、暇なんだったらあの人のとこに行って、扇いであげてくださいな。今日も暑いから、きっと寝苦しいわ」
「……おう、気が向いたらな」
「ついでにこれも持っていってくださいな。汗をかいていたら拭いてあげて」
 水の入った桶と手ぬぐいをわたされた。反射的に受け取ると、「おねがいね」と笑う。置いていくわけにもいかず、慶次は唇を突き出して、桶を小脇に抱えなおした。
 台所から上がると、いつものように背中から、履物はちゃんと並べなされ、という声が飛んでくる。慶次はいつものように無視をきめこんだ。言ったところで、慶次が戻ってきて履物を並べていくなど、どうせ女だって期待していないのだ。
 多くない部屋の、それでも一番奥の部屋に、光秀は寝かされている。風の通りがよく、女が趣味で手を入れている庭がよく見えるのだ。
 弱った光秀を見るのは好きではなかった。あの無残なすがたを思い出してしまうのだ。忘れてしまいたかった。
 同じ邸に寝起きしても、あまり光秀の部屋には近寄らなかった。彼が起きている時に、一度か二度、何か言いたげな目で見上げられたことがあったが、声を出 すのも億劫なようで、すぐに眠ってしまった。最後に光秀の様子を見たのは三日前だった。様子を聞くたびに、「自分で見てくればいいのに」と、女には笑われ た。
 縁を、そっと歩く。歩き方にまで気を遣ったのは、叔母が風邪で倒れたとき以来だった。
 光秀の部屋の障子は開け放たれていた。障子の影から覗いてみる。掛け布が規則正しく上下している。眠っているようだった。
 枕もとに腰をおろし、桶を置いた。布団の頭側に扇子があった。女がいつも、これで扇いでやっているのだろう。扇子は、慶次の手にはいかにも小さかった。なんとなしに、頬が緩んだ。
 硬く絞った手ぬぐいで、額と頬、首筋を拭いてやり、ゆっくりと、扇いでやる。光秀が起きる気配はなかったが、その穏やかな寝顔で、ずいぶん回復していることを知った。
 扇ぎながら、庭を眺めた。こぢんまりとした、お世辞にも広くない庭だが、どこから手に入れたのか、花の絶えることがない。いまは、百合と桔梗が盛りのよ うだった。何年か前に、戯れに植えた槐は、ずいぶんと大きく茂り、これもまた、白い花をつけていた。
 明智の屋敷には、やはり、花の絶えることがなかったという。風雅を好む主人のために、信長が贈ったのだという。
「あんたが、こんなにまっしろじゃなければな」
 そっと呟いた。今更のことを、言いたくはなかった。それでも、思わずにはいられない。そして、もしそうなら、あれほどに重用されることはなかっただろう、とも思った。
 気配が揺らいだ。大きく息を吸い、吐く音が聞こえた。視線を落とすと、ゆっくりまぶたを押し上げるのが見えた。
「起きたかい」
 声をかけてやると、覚醒しきらない顔で、慶次を見上げた。唇が動いた。掠れた吐息が漏れた。慶次の名を呼んだ、ようだった。
 背と敷布の間に腕を差し入れ、少しだけ身体を起こさせた。置いたままだった水差しの水はすっかりぬるまっていたが、口元に寄せると、素直に飲んだ。
 口元にこぼれた水を指で拭ってやると、呼気に触れた。一瞬だけ、ぎくりとした。
「ありがとう、ございます」
 まだ少し掠れたまま、それでもしっかりとした声で、光秀が言った。
(こんな声だったか)
 あれから、呻き以外の光秀の声を聞いたことはなかった。彼の声を、慶次は忘れかけていた。
「寝ているか?」
「いえ……前田殿がよければ、このままで。庭が見たいのです」
 そう言って、光秀は庭に目を向けた。
 光秀が楽なように、抱えなおしてやる。さらりと硬質な音をたてて黒髪が流れ、慶次はまた、ぎくりとした。
 寝汗をかいたのか、わずかに汗のにおいがした。あの記憶が戻りそうになって、慶次は息を止めた。
 穏やかな、光秀の白い顔を見る。肉は削げ落ち、ずいぶん痩せてしまったが、どこか憂いを帯びたその美貌がかげることはなかった。
「なぜ」
 囁くような声音で、光秀が呟いた。
「なぜ、たすけたのです」
 光秀は前を向いたまま、慶次を見ずに言った。
「なんでだろうな」
 正直に返した。なぜかなど、慶次自身が聞きたかった。
 面倒なことは嫌いだ。光秀は負けた。負けて、首を刎ねられ、都に晒されていたら、おそらくそれでよかった。あるいはあの時、何も聞き付けなければ、それでよかった。
 あの時、慶次はむなしかったのだ。
 むなしいまま死んでゆく男が、無性に悲しかったのだ。
 問い掛けておきながら、光秀はもう、興味をなくしてしまったようだった。あるいははじめから、返事など求めていないのかもしれなかった。
「なあ、あんた」
 蝉が喧しく鳴いている。
「あんた、もしかして」
 それ以上は聞けなかった。腕のなかの身体は、身動ぎもしなかった。まるで、あの時のようだった。
 光秀の背が、汗ばんで湿っていた。背が震えた。暑さなど、もう感じていなかった。
 そっと、光秀を敷布に横たえた。疲れたのか、軽く目を閉じている。額に掛かった髪を払ってやった。肌に触れぬよう、無意識に指に力が入った。
 光秀は、目を開けなかった。眠ってしまうつもりなのかもしれない。
 音をたてないように、慶次は部屋を出た。腹の中が重苦しく、不快だった。身に慣れた感覚だからこそ、不快だった。


 半月もすれば、光秀は一人で不自由はしないほどに回復した。まだ少し疲れやすいようだが、もともと慶次の邸では、何をすることもない。寝るか、ぼうっとしているか、歌を詠むか、それくらいのものだった。
 光秀が自分で起きられるようになってからは、慶次はこの部屋に入り浸った。単純にこの部屋が一番涼しいせいでもあるし、もともと慶次は、光秀のことは嫌 いではなかった。光秀の持つ、独特の清浄な気配も好ましい。よい句を思い付いた光秀が、字を書き付ける時にたてるわずかな衣擦れの音も、耳に心地好い。
 蚊帳を張った部屋の中は、書き物をしている光秀の手元に小さな灯りがひとつあるきりで、隅にはひっそりと夜が蹲っている。
 敷布の上に寝転がり、慶次は投げ出したままのてのひらを、赤子のように開いたり閉じたりしていた。
 光秀が振り向く気配がし、慶次は顎を上げた。さかさまに映る光秀の顔は、かすかに微笑をうかべている。
「お邪魔でしたか」
 ささやくような声で、光秀が問う。
「いや、どっちかっていうと邪魔してんのは俺だ。気にしねぇでくれ」
 応えると、光秀はわずかに目尻をくつろげた。感情が表に出やすい性質のくせに、ふだんの彼の表情は少ない。微笑んでいるか、苦笑しているか、なにもないか。いくさのときのほうが、よほど表情豊かだ。
 光秀は静かだ。たとえるならば、深く降り積もった雪だ。その白ですべてのものを覆い隠そうとする。まわりの音を呑み込み、静謐に包み込む。そして、自身は小さな鈴を鳴らすようにしんしんと、ゆっくりと、降り積むのだ。
「なぁ、」
 息が白くならないのが不思議だった。馬鹿な話だ。夏なのだ。
「抱かせてくれねぇか」
 笑みを浮かべている、はずだが、本当はどうなのか。
 光秀が、わずかに瞠目した。じっと慶次をみつめたあと、長い瞬きをした。目を伏せる一瞬、失望に似た光がよぎったように見えた。見間違いかも、思い込みかも、しれないと思った。ふたたび開いた、黒い瞳には、かけらは残っていなかった。
「構いませんよ」
 こともなげに、光秀は了承した。いつものように、微笑んでいた。
 明かりを落とそうとした腕を、袖を引いて止めた。
 そのまま引き倒す。慶次より幾回りも細い半身が被さった。長い髪と夜の闇のせいで、彼の表情は知れなかった。
 触れた頬は滑らかで、まるで武将のものとは思えない。冷たいと勝手に予想した肌は、慮外にあたたかだった。
 わずかな身動ぎを押さえ付ける。光秀が、苦しげに短く呻いた。
「前田殿」
 咎める声を無視した。ぐるりと身体を入れ替えればもう、わずかな抵抗も塞がれた。
「前田殿」
 もう一度、名を呼ばれた。仰向けになったせいで、顔が見えた。相変わらず秀麗な、憂いを佩いたその顔は、薄く苦笑を乗せていた。
「構わぬと、聞こえませんでしたか」
「聞こえた」
「では、少し落ち着きなさい」
「あんたが、」
 言いかけ、噤んだ。不快なことを、口走りそうになった。
 言葉を選び、呼吸とともに、吐き出す。
「いやがったら、やめようと」
「乱暴にされれば、誰でも嫌でしょう」
 光秀が、苦笑を深めた。息が詰まりそうになった。思い出させたか。
 押さえ付けていた大きな手をそっと外し、光秀は、慶次の逞しい首に腕を添わせた。乾いた、色の薄い髪を、ゆっくりと撫でる。
 そのまま、慶次の頭を引き寄せ、広い肩に顔を埋めた。花のような香りがし、慶次は、自分に比べればずいぶん華奢な肩を抱いた。腹の奥が重く凝った。その凝りは、じわりと熱を持ち、手足に広がった。不快にはならなかった。
 几帳面に締められた寝間着の帯は、驚くほどあっさりとほどけた。
 袷を割り、腹から手を差し入れた。触れた肌は、滑らかではあったが、乾いていた。荒れた指の腹でひっかけてしまうのが忍びなく、中指の甲で撫でてやると、ふつっと粟がたった。
 面白がって、しつこく脇の辺りをくすぐってやると、嫌がって身をよじる。
「う」
 うめくように、声があがった。びく、と手が止まる。不審げな声で名を呼ばれ、我に返った。
「前田殿」
 頬を包む手は、思っていたよりもずっと荒れていた。そういえば剣も、達者に遣う。
 自分が、いかにこの男をなよやかに見ていたのかと、情けなくなった。ゆうゆうと茶に唄に興じているだけの貴族ではない。風雅を好むが、光秀は武人なのだ。
 いくさ場で采配を振り、太刀を取る彼とは別人だと、無意識に思っていたのかもしれなかった。
 目を閉じると、嫌なことを思い出してしまいそうで、じっと光秀を見下ろした。
 頬には紅が差し、瞳は雨に濡れる黒玉のように潤んでいる。髪を梳き上げると、わずかに目を細めた。
 はじめて、口付ける。唇だけは、想像したままに、しっとりと柔らかだった。
 平たい胸は薄い筋肉が覆っていて、そっと慶次の掌を押し返す。
 胸元の突起に指をひっかけると、肩が震えた。摘むほどもない小さなそれを、指で揉むように撫でてやる。小さな咳に似た音をたてていた喉が、はぁ、と吐息を吐き出した。
 軽く仰のき、晒された喉に口付ける。また震えた。
 肌を探ると、こまかな傷痕にいくつも触った。腹のあたりにある、小さくひきつれた痕は、矢傷だろう。腿が軽く抉ているのは、馬上で槍でも受けた痕か。武人なのだ、とまた思った。思い聞かせているようだった。
 立ち上がりかけたそこに触れると、はじめて、逃げるように身を捩った。押さえつけ、軽く扱くと、低いうめきを漏らした。高い喘ぎを期待したが、溜息に近いうめきがきこえるだけだった。
 ひときわ大きく震え、息を詰め、光秀は達した。小さな火に照らされた、深く皺の刻まれた眉間は、灯りのせいだけでなく、朱に染まっている。残った精を絞り出すように、しつこく扱いてやると、はじめて、小さく声を上げた。
「ぅ……あ」
 はぁ、と大きな息をつく。薄い胸を上下させ、喉を開いて、光秀は何度も空気を吸い込んでは吐き出した。
「っ、」
 てのひらに吐き出されたぬめりにまかせ、後ろの窄まりにそっと触れると、光秀の体が跳ねた。精を塗り込め、丹念にほぐしてゆく。そこはすぐに柔らかくほどけ、光秀よりもいくらも太い慶次の指を、ゆっくりと呑み込んだ。
 腹のなかから刺激をおくるたびに、光秀の内側は熱く潤み、慶次の指をそっと締め付けた。
 唇を噛みしめ、固く目を閉じ、頭を打ち振る光秀を見下ろした。胃の腑が、きり、と痛んだ。
 噂はあった。その噂が、当たらずとも遠からずであったことを、慶次は知っていた。伽小姓のまねごとをしている。殿をその身でたらしこんでいる。口さがな い者は、どこにでもいるものだった。それだけ、光秀の容貌は傑出してい、信長の寵愛は著しかった。
 同じ身体を抱けば、その残滓に必ず触れる。それでも、触れたくないのが男の性で、慶次とても例に漏れるわけではなかった。
「んう、」
 喉にかかった喘ぎが、一段高くなった。慶次の指が、ある一点をこすりあげると、ひきつった喘ぎが、きれぎれにあがった。
「う、あ、……っは」
 噛みしめられていた唇がわななき、わずかに開いた。その唇をすくい取り、深く合わせた。舌を差し出すと、自ら絡めた。まるで慣れたものだった。
 また、胃の腑が痛んだ。
 指を引き抜き、かわりに脈打つ先端をあてがった。そっと触れさせた、それだけで、熟れたそこは簡単に慶次を迎え入れた。
 最も太い部分を呑み込ませるときにだけ、光秀の肩が緊張した。そこをすぎれば、慶次の侵入に合わせるように、力が抜けた。慶次は、腕におさまってしまう 肢体を抱きしめ、耳元に顔をうずめた。しなやかな髮が頬をくすぐった。締め付けられる快感に眉を寄せ、白い首筋に噛み付いた。光秀が、びくりと反応する。 一瞬、きつく締め付けられ、慶次はうめいた。
「動くぞ、」
 早口で耳元に囁く。言い終わらないうちに動き出した慶次に呼吸を乱されたのか、光秀は苦しげな喘ぎを漏らして、逞しい背にすがりついた。慶次が抽挿をくりかえすたびに、掠れた声が上がった。
 光秀のなかは、締め付ける、というよりむしろ、やんわりと抱くように、慶次を包み込んだ。
 慶次のほうが先に、我を忘れた。
「なぁ、あんた」
 声が零れた。光秀に聞こえているのかどうか、わからなかった。そんなことはどうでもいいのかもしれなかった。
 胃の痛みが、腹の底に溜まっていたものを吐かせているような気がした。
 嘔吐するように、喉を焼け付かせながら、言葉がせりあがるのを、慶次は止められなかった。目尻が熱を持っていた。一度目を伏せ、むりやりに開いた。開いていたかった。光秀の顔を、見ていたかった。
「あんた、死にたかったのか。信長様と一緒に、死にたかったのか」
 答えはなかった。聞こえているのかどうか、わからなかった。
 そんなことは、もう、どうでもよかった。
「なぁ、なぁ、なぁ……」
 返事もないのに、期待もしていないのに、無意味な問いかけはうわごとのように、唇から零れ続けた。
 光秀が、息を詰めて達し、意識をなくしてからも、慶次はずっと、問い続けた。答えはなかった。
 力の抜けた光秀の体を抱き、慶次は泣いた。
 白い額に寄せられていた眉が緩み、上がっていた呼吸が穏やかな寝息に変わっても、慶次は泣いた。


 暑さに目を覚ますと、もう昼に近かった。
 隣に寝ていたはずの光秀は、すでに身支度を整え、いつものように、何やら書き物をしていた。
「おはようございます」
 光秀は、振り向きもせずに言った。声は変わらず穏やかで、昨夜のことなどまるで知らぬ風だ。
 よもや夢かと、慶次は疑ったが、ちらちらと覗く光秀の手首に、強く握った跡を見つけ、安堵した。あんな夢を見てしまったのでは、あまりにもきまりが悪い。
「おう」
 柄にもなく、照れくささを滲ませたいらえを返すと、わずかに顔をこちらに向けた。髮で隠れて見えないが、笑ったようだった。
 ひとしきり書き付け、光秀は筆を置いた。ふたとおりほど読み返し、几帳面に畳んだ。再び筆を取り、表書きを入れると、光秀はようやく慶次に向き直った。
「ずいぶんとお世話になり、申し訳ありません」
 言って、光秀は頭を下げた。小さな鈴を鳴らすような音をたて、長い黒髪が背から落ちた。
 慶次は、身を起こし、首筋を引っ掻いた。吐息が漏れた。光秀が顔を上げるのを待つ。
 向き直った光秀は、どこかすっきりとした顔をしていた。
「行くか」
「ええ」
「どうする、これから」
 尋ねると、光秀は笑んだ。淋しげな笑みだった。
「本来ならば、腹を切り、死んだ者たちに黄泉路で詫びるべきところですが、前田殿に助けていただいた以上、やすやすと死ぬこともままならなくなってしまい ました。かといって、いまさら、再起というわけにもいきますまい。出家でもして、つつましやかに余生をすごそうと考えています」
 坂本城が陥ち、光秀の妻子とともに明智秀満が自刃したことは、光秀には伝えていない。
 だが、戦国の世を生き抜いてきた光秀には、敗れた者の一族がどうなるかなど、わかりきっていることなのだ。すでに、光秀として生きるべき場所はどこにもなかった。
 明智秀満の最期は、あっぱれなものだったと聞いた。伝えるべきか、慶次は迷った。迷ったすえ、默っていることに決めた。縁があれば、いつか、どこかで耳にすることもあるだろう。
 つらい顔を見るのは、こちらもつらい。慶次には、生かすあてもないのに生かしてしまった負い目もあった。
 いい格好をしたいのだ。
 いい格好をしたままで、別れたかった。思い出されるときは、かならずいい男でありたかった。
「どこへ行くんだ」
「そうですね、……ともあれ、東国でしょうか。このあたりには、私の顔を知るものも多いですから。甲斐に、懇意の寺があるので、そちらでしばらく厄介になって、後のことはそれからゆっくり考えます」
「そうか」
「前田殿には、何のお礼もできませんが」
 そう言って軽く笑い、光秀はまた、頭を下げた。
 光秀のつむじを眺めながら、別れがたい思いに、慶次は戸惑った。
 おそらく、今生の別れだ。そう思うと、また、胃が痛んだ。
 この男の前に出ると、ずっとそうだった。意味がわからぬほど、子供ではなかった。
 それがまた、慶次には少しつらかった。
「甲斐まで、送ってやる」
 それだけを口に出すのに、慶次はずいぶんと苦労した。言ってしまえば、ほっとした。光秀は驚いた顔で、切れ長の目をわずかに見開き、何度か瞬きをした。
「しかし、」
「俺は、越後に行こうと思ってるが、急ぐわけでもねぇ。ちょっとくらい遠回りになっても構やしねぇよ。それよりあんたが、途中で行き倒れやしねぇかと心配でなぁ」
 笑ってやると、光秀は、困ったように笑い返した。反論はなかったが、その笑みで、承諾の意を、慶次は汲んだ。
 立ち上がり、縁に出る光秀を、慶次は布団の上にあぐらをかいたまま見送った。
 真夏には珍しい、涼しい風が通った。槐の葉ずれの音に混じって、光秀の髮が揺れる音がした。
 この音を、慶次は好きだった。
 この男を、好きだった。
「行く水の、泡ならばこそ……」
 軽く仰のき、天を見上げ、光秀が呟いた。
 雲一つ見あたらなかった。


 数日後、光秀を甲斐へ送り届けたあと、慶次は越後の上杉に身を寄せた。
 それから一度だけ届いた手紙には、『天海』と書かれてあった。
 本人の性質に似て、几帳面に並んだ字をしばらく眺め、文箱にしまうと、もう開けることはなかった。
 慶次が、彼に会うことは、ついになかった。

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