ゆめ、まぼろしのごとくなり

 信長が、時折開く酒宴の席だった。
 酒に弱いのは自覚がある。だから、あまり飲まないようにしていたのだが、勧められるままに、つい、酒を過ごした。勝ち戦の昂揚も、おそらくはあったのだと思う。
「明智どのは、なぜに信長様を『殿』とお呼びなさらぬ」
 近くで飲んでいた滝川一益に、ふと話をふられた。一益とは、特に親しい間柄というわけでもない。ただ、新参の光秀には、話しやすい人柄ではあった。とも に流浪の時代を経ているという、一種の親近感をおぼえていたのかもしれない。おそらく一益も、光秀に対して同じようなものを感じていたのだと思う。一本気 な一益からは、不愉快なものを、光秀は得たことがなかった。
 だから、ほんの少しばかり、気が緩んだのだろう。
「私が、『殿』とお呼びするのは、お一人だけですから」
 みな酔っていた。さして詮索されることもなく、まわりからは、明智十兵衛にそこまで慕われれば冥利じゃと、もちあげられたせいで、一益の目が一瞬曇ったのを、見逃した。
「私もいらぬ質問をしてしまったゆえ、できるだけ、あらぬ風聞にならぬよう手回しをしておくが、明智殿、これからはあまりご酒を過ごされぬ方がよい。おぬしはふだん固いぶん、酒が入ると少々おおらかになりすぎるようだから」
 宴が開きになったあと、一益がそう耳打ちしてきて、ようやく光秀は、血の気を下げたのだ。

 とはいえ、人の口に戸はたてられぬ。
『明智十兵衛光秀の忠義に曇りあり。』
 一益のひそかな尽力にもかかわらず、みるまにその噂は織田家中でもちきりとなった。
 信長がいかに先進的な実力主義とはいえ、家臣まで同じというわけではない。織田家中にも、新参の台頭を好まない者は存在する。信長の覚えめでたく、躍進めざましい光秀は、そういった嫉視の対象になりやすかった。
(滝川殿に、いらぬご迷惑がかかっていなければよいが)
 あれ以来、一度文を送ったきりで、それには他愛もないできごとしかしたためていない。返書も似たようなもので、やはり一度きりだった。その文は、変わらず好意に満ちていて、光秀は多少の罪悪感を感じた。
 信長からの召し出しがあったのは、もう、ひとつきほど経ってからだった。
 わずかに違和感をおぼえながらも、光秀は命のままに登城した。部屋に通され、信長を待つ間、その違和感について考えた。
 信長は、こういった風評を、風評のままに置かぬ人間である。家臣にあやしげな動きがあれば、すぐさま召し出し、吟味して、真実に見合った処断を与える。 ひとの噂に人一倍敏感な信長が、光秀をひとつきも放っておいたことが、いかにも不気味であった。
 ほどなく、廊下から足音がきこえてきた。床を踏みしめるように早足で歩く、この音は信長のものである。
 ともかく、光秀は、覚悟を決めた。
(もはや、包み隠さず申し上げ、お沙汰を待つしかない)
 両手をつき、深く頭を下げる。畳を摺る足袋の音と、異常な存在感の気配が、光秀の頭上を横切り、どっかりと腰を降ろした。
「大儀であった」
 いつもとかわらぬ信長の声に、いくぶんほっとしながら、光秀は「は」と短くいらえた。
 面を上げよ、との声を待つが、なぜかいっこうに下らない。流れた髮で頬を隠したまま、光秀は困惑した。何につけせっかちで、無駄な時間を嫌う信長であるのに、光秀を呼びつけておきながら、件の風評について水を向けることもしない。
 顔を上げぬまま、ちら、と上目づかいに覗いてみた。当然ながら、信長の膝さえ、視界には入らない。
(ままよ)
 下知のないままに、光秀は顔を上げ、背を伸ばした。咎めはない。
 はたして信長は、じっと開け放たれた障子の向こうを見つめている。
 つられて、光秀も目をやり、はっとした。
 桜が咲いていた。
 すでに葉の繁った桜のひと枝に、零れるほどの花がついていた。かつて、斎藤山城入道道三が、ことのほか愛でた桜だった。
 一度壊され、再建された稲葉山の城に、道三を偲ぶものは残されていなかったが、この桜だけは、この庭に、伐ることも動かすこともなく残されていた。
「光秀」
 長い沈黙のあとにも、歯切れよく通る声で、名を呼ばれた。光秀は慌てて再び頭を下げた。
「光秀、幸若を舞え。敦盛だ。鼓を打ってとらせる」
 帯に差した扇を放ってよこす。骨に漆を塗った扇は、畳を滑り、光秀の手を軽く打って、止まった。
 顔を上げると、先から眉ひとつ動かさぬ信長が、傍らの鼓を引き寄せている。
「早うせよ」
 わずか逡巡していると、急かされた。思えば、いつも突然に何かを言い出す信長である。光秀は、深くひと呼吸置き、扇を押し頂いた。
 袴の裾を払い、立ち上がる。手首を閃かせると、小気味良い音をたて、扇が開いた。
 ゆるりと腰を落とし、腕を上げる。
 たん、と鼓が鳴る。
 信長の鼓と、呼吸を合わせた。
 深く息を吸い、腹に力を込めた。信長よりもいくぶん甲高い、澄んだ声が、朗々と謡い上げる。

  思えば此の世は常のすみかに非ず
  草葉に置く白露
  水に宿る月よりもなおあやし
  金谷に花を詠みしつつ
  栄華は先立ちて
  無常の風に誘わるる
  南楼の月を弄ぶ輩も
  月に先立て
  有為の雲に隠れり

(お叱りにはならぬのか)
 しずしずと舞いながら、光秀は考えた。鼓を打ちながら光秀の舞を眺めている信長のまなざしは、いつになくやさしげなものだった。
 くるり、半身を入れ替える。ひとふさの桜が、また、目に入った。
 いつから咲いていたものか、そよと吹く風に、もう散りはじめている。

  人間五十年
  化天の内を較ぶれば
  夢幻の如く也
  一度生を享け
  滅せぬものの有るべきか

 鼓が止んだ。
 余韻を残し、消えゆく音を聴きながら、光秀は裾を払って座し、頭を垂れた。
 信長に、敦盛といわれれば、この箇所だった。敦盛を好むくせに、信長はこの箇所しか舞うことがない。平家の無常と、信長の無常が、どこで通じているのかは、光秀にはわからなかった。
「光秀」
「は」
 呼ばれ、短く答える。次を待った。
「人間五十年、夢幻の如し、ぞ」
 弾かれたように、顔を上げた。光秀に語りかけていながら、信長は開け放たれた庭を、また、じっと眺めていた。
「ゆめ、まぼろしのごとくであったのだ」
 光秀は、ふたたび、頭を垂れた。目尻が、じわりと熱を持った。
「申し訳ございません」
「構わぬ。他の者ならば許さぬところであるが、親父殿では、是非に及ばぬ」
「申し訳、ございません」
「よい、というに」
 喉に掛かった涙声を聞かれてか、珍しく信長が苦笑した。
 光秀は、背を伸ばし、袖口で軽く目頭を拭うと、信長を見据えた。そのころにはもう、信長はいつもどおりの、無愛想な顔に戻っている。
「信長様を、殿、とお呼びすることは、いたしかねます」
「うむ」
 光秀の言葉に、信長はわずか口の端を上げたが、いらえてみせた。
「ですが、この光秀の忠義は変わらぬものと、お知りおきください。信長様の目指されるところが、光秀と同じものであるかぎり、この忠義が揺らぐことは、永劫ございません」
「では、信長の目指すところがうぬと違えたときには、どうする」
「そのときは、恐れながら、お命を頂戴つかまつります」
 半ばからかいの音を込め、意地悪く問うた信長に、どこまでも生真面目な表情で、眉間に悩ましげに皺を寄せ、光秀は重苦しく答えた。光秀の胸の内には、つねに燻るものでもあった。
 口に出した後で、後悔した。まさしく、謀叛の宣言である。信長は軽く聞き流しているようだが、戯れ言として捨て置いて欲しいのか、油断のならぬ奴よと咎めて欲しいのか、わからない。
 ただ、言っておかねばならぬような、そんなおもいが、胸の底から突き上げてきたのだった。
 信長が、声をたてて笑った。
「儂が気に喰わぬなら、いつでも討ちに来い」
 笑って、そのようなことを言うので、光秀はあわてた。
「いま、というわけではございません。その時が来ねば、それでよいのです。そのほうがよいのです」
「ふむ、であるか」
 にやにやと笑う信長を見、ようやくからかわれていたことに気づき、光秀は顔を赤らめた。笑みを浮かべたまま、信長がふと、中空に目をやった。
 ひとひらの、薄桃色の花弁が、風に運ばれてきたようだった。ひそ、とわずかな音をたて、畳に落ちる。
 狂い咲きの、桜の枝に目をやると、さいごのひとひらが枝から離れるのが見えた。
「……親父殿であったか、のぅ」
 ぽつりと、信長が呟いた。
「まさに、ゆめまぼろしの花よ」
 うなずくことも忘れ、光秀は、最後の花弁を見送った。
 道三の夢は、夢に終わった。その、さいごのひとかけらであるようにみえた。
 光秀は、もう一粒、涙を零した。信長は、見ないようにしてくれたようだった。

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