ほたるび

 あるじ、明智十兵衛光秀は、感情が顔に出やすい男だ。何か心に懸かることがあれば、沈鬱な表情で帰ってくるし、また何か良いしらせがあれば、それとわかる嬉しげな顔をひっさげて帰る。
 ちょうど通りかかった秀満は、全身に喜色をまとわせた光秀が門をくぐるのを迎えた。
 秀満に気づくと、光秀は、にっこりと笑って見せた。当人は微笑んだつもりなのだろうが、彼の嬉しさがまさり、満面の笑みとなっている。それがあまりに稚気にみちていて、秀満はつられて笑顔になった。
「おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました、左馬之介」
「なにやら良いことでもありましたか?」
「ええ、よいところに。これをご覧なさい」
 大事そうに抱えた錦の包みを、光秀はそっとほどいた。四角い桐の箱がのぞく。
「このようなところでは、落としてしまっても困ります。中へ入りませぬか」
 早く見せたくてしかたがないのだろうが、さすがに立ったままではおぼつかない。秀満はひとまず、縁側へ促した。そわそわと落ち着かぬ様子で、光秀はしかし、素直に秀満について歩いた。
 縁側に座り込むや、光秀は桐箱にかぶせていた錦を取り払った。桐箱の蓋を開けると、見事な茶碗が姿を見せた。
「ほう、これは」
「唐渡りの茶碗ということです。信長様から拝領したのですよ」
「見事なすがたですね」
「釉薬の模様がとても良いでしょう。さすが、信長様はお目が高くていらっしゃる」
 茶碗のおもてを指でなぞりながら、光秀は実に嬉しそうに笑う。
 織田家中では、臣下が勝手に茶会を開くことは許されない。信長から直々に茶道具を賜った者だけが、茶会を催すことができた。光秀は先年、信長に八角釜を 拝領し、すでに茶会を開ける身分ではあったが、信長に劣らず茶の湯に対する造詣は深い。名物茶器に出会えば、子供のようにはしゃいでしまうのだ。また信長 も、いつも眉間に皺を寄せて難しげな顔をした光秀の浮かれぶりを後でからかおうと、時折こうして非公式に茶器を与えていた。
「それにしても、茶杓も賜れない方々も多いというのに、私ばかりがこのように特別な扱いを受けてよいものでしょうか」
 茶碗を大事そうに胸に戴いて、光秀は首を傾げた。
 明智の軍勢が、いまや織田方にとってなくてはならないものであることは、誰でも知っている。そして、信長がこういった稚気の持ち主であることも、織田の将なら知らぬ者はない。秀満は苦笑したが、この気性こそが我が主、と嬉しくもなった。
「それでは、信長様が、誰かにやるから茶碗を返せ、と言われたらどうなさいます」
「そ、それは困ります! いただいたものを返せとはご無体な」
 たとえ話に慌てはじめた光秀がおかしく、秀満はこらえきれずに声を上げて笑った。光秀はしばらく瞬きをしていたが、つられて笑った。


 目の前をひかりがよぎって我に返った。わずかの間、意識を飛ばしていたようだった。
 少し前までは百ほどもいた兵は打ち減らされ、あるいは散り散りになり、秀満と光秀をいれても十人足らずしか、もう残っていない。
 誤算が重なっていた。細川親子は助力を拒み、筒井順慶は動かず、中国で毛利を相手取っているはずの羽柴秀吉は、まさに神速をもって馳せつけた。数のうえでも、士気においても、勝ち目のない戦いだった。
 光秀がなぜ、信長を討つ気持ちになったかは、秀満にはわからなかった。聞くこともしなかった。あるいは、光秀自身にも、わかっていなかったのかもしれない。
 彼らの間に、どのような確執があり、どのような思いがあったか、秀満には知るよしもなかった。
 顔を上げると、じっと前を見つめる光秀のすがたがあった。
 近くに小川でも流れているのか、蛍がやってきていた。ちいさなひかりが群れをなして乱舞する。このような状況でなければ、歌のひとつも読みたくなるほど、見事なものだった。
 光秀は、ただ、虚空をみつめている。
「殿」
 呼びかけた。返事はない。もう一度、殿、と呼んだ。わずかに俯いていた顔を上げ、光秀がゆっくりと振り向いた。憔悴しきったその顔に、ただ目だけが、群れた蛍の一匹のように光っていた。
 秀満は、息を吸い込み、口を開いた。言葉が喉を通るまで、時間がかかった。
「殿、いつまでもこうしているわけには」
 口をついたのは、わかりきったせりふだった。羽柴軍は、総掛かりで光秀を追っている。百姓どもの落ち武者狩りも心掛かりだった。光秀と、おそらく秀満の首も、おそろしい額の金に換わる。
 夜のうちに、安全な場所までたどり着きたい。早いうちに光秀の治めていた領地までたどりつければ、光秀をたすけてくれるものも多いに違いなかった。光秀 は自領ではつねに善政を布いていたから、領民にはつねに慕われていた。領地召し上げになったときいて、みな涙を流して嘆いたのものだった。
「お疲れとは思いますが、なにとぞ」
 座り込んでいた兵たちが、立ち上がりはじめた。最後に秀満が立ち上がると、ようやく、光秀も腰を上げた。
「あと、どのくらいなのでしょう」
 ぼんやりと、光秀が呟いた。何が、と問い返しかけ、とどまる。聞いてはいけない、ただ、そんな気がした。
「まだいくらも。さ、お早く」
 光秀を急かして歩き出す。光秀の前に四人、すぐ後ろに秀満が、残りのものがしんがりに控えた。蛍の群を、かきわけるように進む。
 光秀の足取りは、まだしっかりとしていたが、その背は、いつもよりも小さく見えた。敗戦の痛手だけではないように思う。だんだんと数をふやしてゆく蛍の群れが、光の霧のようだった。前をゆく者たちを見失いそうになり、秀満は足を速めた。
 蛙の声に混じった小さな葉ずれの音に耳を止めたのは、先頭をゆくひとりだった。足を止め、槍をかまえる。
「殿、お逃げくだされ。馬で駆ければ、追ってはこれませぬ」
 ひとりがささやいた。光秀は目を閉じ、しばらく沈黙していたが、やがてかぶりを振った。
「ここまでくれば、もはや逃げも隠れもしません」
 言い、光秀は腰の太刀を払った。あれほどの激戦をくぐり抜ながら、刃こぼれひとつおこしていない。銘は数珠丸恒次、光秀のかつての主君、斎藤山城入道道 三の愛刀である。いつの頃にか手にいれ、大事にしまっていた刀だ。時折鞘を払っては、じっと見つめていた光秀のすがたを思いだす。
 あのときも、光秀が何を思っているか、わからなかった。かなしみでも、懐愁でもない想いを、光秀は抱いていたのだろう。
 草むらをかきわける、葉ずれの音が近づいてくる。小声で何か言い交わすのが、かすかに聞こえた。
 秀満は槍を握り直し、ひとつ大きな呼吸をした。


 息が上がっている。秀満は舌打ちをした。
 追っ手はやはり、百姓たちの落ち武者狩りだった。笑ってしまうような貧相な武具でも、数がいればやっかいだ。徴兵され、戦に出たものもまざっているらしく、なまくらながら太刀を携えているものすらいた。
 目の前の手合いをひたすら切り伏せながら、秀満は光秀を探した。さすがに百姓たちも数を減らしていたが、こちらももう、ひとりふたりを残して討たれてしまった。
「殿っ」
 悲鳴に似た声で呼ぶ。数人に囲まれている。血の気が引いた。
 光秀は落ち着き払っている。まともに構えてさえいなかった。
「私の首が、欲しいのでしょう」
 光秀は、笑っていた。
「欲しければ、持ってゆきなさい」
 大きな声でもないのに、やけにはっきりと聞こえた。百姓たちは、例のない状況に互いに顔を見合わせ、とまどっている。
 向かってきたひとりを槍の柄で打ち払い、秀満は駆けた。十数歩が、千里の道に思えた。
 我に返って振り向いた男たちを、ふたり一気に突き伏せる。のこりの数人は、悲鳴を上げて逃げ去った。
 息を切らし、見回せば、もう立っているのは、秀満と光秀のふたりきりだった。
 光秀が、天をあおいだ。
「……欲しいのならば、くれてやればよかったのです。そうすれば、彼らの生活も少しは潤ったでしょうに」
「そのような。なんのために、恥を忍んでここまで落ち延びてきたのです。奥方様や若様のことを、どうなさいます」
 絞り出すように言った秀満の言葉に、光秀は、目尻をゆるめて微笑んだ。
 秀満は、大きく息を吸い、詰めた。
 気づかなかった。光秀の脇腹から、具足を染めて、血が流れている。
「殿、お手当を」
「よいのです。もう、よいのです」
 天を仰いだまま、光秀はゆるりと目を閉じた。頽れた身体を抱き留める。重みで、秀満も膝をついた。
「左馬之介、」
 声は、いつもどおり、穏やかだった。うかべたままの微笑みも、いつもどおりだった。
「介錯を」
 厭です。訴えようとした喉は、鳴らなかった。
 かわりに、ぎこちなく、うなずいた。
 湿った土の上に座らせ、太刀を抜く。清める水もない。じっと手元を見つめていると、光秀が数珠丸を差し出した。
「これを」
 二尺七寸の太刀は、ずしりと重い。両の腕にかかる重みに、これを手にしたものたちのいのちを思った。
 光秀が、脇差しを抜き、懐をゆるめた。
「殿」
 呼ぶと、わずかに顔を向けた。
「私も、すぐにゆきますから、待っていてください」
 喉に詰まらせながらようやく言うと、光秀は困ったように眉尻を下げた。
 光秀は、ふと顔を上げ、なにごともなかったように飛ぶ蛍を見つめた。


      順逆二門無し
      大同心源に徹す
      五十五年の夢覚め来たりて
      一元に帰す


 秀満は笑った。泣きながら笑った。辞世まで唐詩(からうた)とは、このひとらしい。
「あのかたは、待っていて下さるでしょうか」
 ぽつりと呟く。誰などと、もう思わなかった。
「ええ、きっと」
 答えてやると、やはりいつもと同じに、笑った。
 脇差しが、その腹に消えるのを見届けて、重い太刀を振り下ろす。
 首が転がり、長い髪が土の上に散らばった。
 一匹の蛍が、その髪のうえに止まった。
 漆黒の髪で明滅する蛍を、秀満はただ、見つめた。
 蛍は、いつまでも離れなかった。

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