温泉へいこう

「高虎。湯が使えるぞ」
 頭の上から降ってきた声に、高虎は顔を上げた。
 見れば、人好きのする顔でにこにこ笑う少年が櫓の窓から身を乗り出していて、藪から棒になんだ、と、高虎はちょっと眉を寄せた。
 小谷城のすぐ東、須賀谷には、湯が湧いている。
 ここを代々領する片桐家の嫡子、助作は高虎と同年で、また主君長政とおなじく、上下の別をあまり分けぬ質だった。槍働きにも長けていて、年の近い高虎や吉継に、よく声をかけてくる。
「助作、気をつけないと落ちるぞ」
「そんなやわな出来にはなっていないよ。それより、湯なんだけどさ。ちかごろ湯量が多いから、下のほうにもだいぶまわしていいと父上が言ってたんだ。このあいだ、また怪我をしたんだろ? 湯治にくればいい」
 相変わらずにこにこ顔の助作を、高虎はじろりと睨めつけた。
 ひと月ほど前の小競り合いのさい、不覚をとって、左の肩を外してしまった。小さな刀創などはすっかり癒えてしまったが、どうやら肩を入れるときに、すこし角度を間違えたらしく、違和感が残っていた。腕を引くと、軋むような痛みもある。
 無理をするとおかしな風に癖が残るからほどほどにして休め、と、吉継からも再々言われていたが、高虎はどうにもじっとしているのが性に合わぬ質である。あるいは助作は、見かねた吉継あたりから根回しをされているのやもしれぬ。
「春までは戦もないだろ。これから冷える時期なんだから、その前にちゃんと治しておいたほうがいいぞ」
 正論である。ぐっと詰まり、への字に口を歪めた高虎を見下ろし、助作は声をたてて笑った。
「番の者には伝えておくから、ま、気が向いたときにいつでも来な」
「……わかった。近いうちに邪魔する」
 根負けしたように答えると、助作は、うん、と満足げにひとつ頷くのだった。

     * * *

 大谷屋敷――屋敷というには手狭だが、ともかく吉継の住まいする家は、須賀谷と清水谷のあいだにある。
 とはいえ、いくらか須賀谷寄りなのは、大谷家が六角の傘下を離れ浅井に帰順したさい、片桐家の預かりだったからで、年の近い助作と吉継は親交がある。どちらも一癖ある奴だから、そういうところが合うのだろう、と高虎は思っていた。
 父を在所に残し、母と幼い妹とくらす吉継の住まいには、男手が足りなかった。雇っている夫婦者の小物と女中はすでに初老にかかっていて、あまり重い働きをさせるのには気が引ける――というので、高虎に白羽の矢がたった。
  次男坊の気楽さで、槍一本に身を立てる決意をした高虎は、足軽長屋に住まいしているが、困るのはもっぱら食であった。十の年には並の大人ほどもあった背丈 はいまだ伸び続けていて、それに比して腹も減る。かつては隆盛したといえ、いまでは武家なのか百姓なのか区別のつかぬ暮らしをしている実家には頼れず、ま たその気もなかった。そんな高虎に、金は出せぬが飯は食わせてやれる、という吉継の申し出は願ったりといったところである。
 三杯目にはそっと出し、などと言うが、食の細い吉継では作り甲斐がなかったからと喜んだのは、奥方と女中であった。近頃は、手伝いのない日にも再々呼ばれては飯を食い、三度に一度は泊まって帰る。
 いっそここに住んではどうか、などと、本気か冗談かわからぬ話に飛んだこともあった。
 本来ならばありがたい話ではあったが、気の引ける理由があった。――高虎と吉継はひそかに恋仲なのである。
 人目を憚るそれらしい行為も、まあ、している。二人とも若いということもあって、いちど火がつくと歯止めがきかぬ――となると、家族のいる家はどうにも具合が悪い。
 高虎の長屋も、壁の薄いこともあり、そういうことには不向きだったから、逢引といえばいきおいどこぞの都合のよい場所で、となるわけで、お互い外に出る口実として、離れて住むのがちょうどよい。
 ……という風なことをうまくはぐらかし、夕餉の徒然話をしていたときだった。
「高虎、湯に浸かりにいこう」
  飯粒を数えながら食っているのかと思わせる体で、ちびちび口に運んでいた吉継が思い出したように――じっさい思い出したのだろう――言った。ここらで湯と いえば、須賀谷の出湯である。上の湯は長政やお市の方など、貴人のために管理されているが、下に流れる湯は誰でも自由に入ってよいといわれている。
「助作にも誘われた」
「そうか」
 じ、と見つめてくるのがむず痒い。この男、ときおり自分のつくった流れを強要してくることがある。たいていなら高虎が拒まぬのをしったうえのことだ。
「……まあ、たまにはいいだろ」
「ああ」
 しぶしぶを装って言うと、吉継はすこし目元を緩めてみせた。
 奥方と妹は、微笑みながら見守っている。願掛けまでして授かった嫡子、また幼いころは伏せがちだったというから、彼は家族から、ずいぶん大事にされている。じわりと罪悪感がわいてくる。
 そういえば、と、飯を咀嚼しながら高虎はふと考えた。
 恋仲になって、湯をともにするのははじめてではなかったか。
 かっ、と頭に血がのぼる感覚がある。慌てて首を振ると、吉継が横から不審げに覗き込んできた。
「いや、な、なんでもない」
「……そうか」
 首を捻りながら膳に戻る吉継を横目で見、高虎はひとつ息を吐く。何の気なしに奥方を見ると、目があった。
 にこ、と微笑みを深くする。
 なんとなし、座り心地の悪い気がして、高虎はすこし身じろいだ。

* * *

 下の湯屋は、番の小物が一人いるだけで、閑散としている。遅い時間というのもあるだろうが、高虎と吉継のほかには誰もいないようだった。
「借り切ってしまったようで、いささか気が引ける」
 言葉とは裏腹に、どこかほっとした調子で、吉継がこぼした。
 ちかごろようやく自覚がついたようだが、吉継が肌を晒すと、ちょっと面倒なことがおきる。
 比較的統制のいきとどいた浅井家中では、無理に手籠めにされることはあまりない。が、そこはおおむね女日照りの男たちである。女所帯で小綺麗に育ち、また見目もよい吉継は、そういった不躾な視線に晒されることが多かった。
 その目に気づいたのが、高虎と体を重ねるようになってからというのが若干複雑なところだが、側でつねにやきもきしていた高虎としてはありがたい。恋うた相手である。他所の男の目をやたらに楽しませるのは、あまりよい気分ではなかった。
「藤堂様で」
「……ああ、そうだが」
 思い出したように、小物が声をかけてくるので、ちょっと眉をしかめて返した。癖のようなものである。このせいであまりよい印象はもたれぬ高虎だが、若年といって舐められるよりましではないかと思っているから、なおすつもりはあまりない。
「ああ、やはり。若様から、なんなら泊まってゆけ、と仰せつかっておりますで、儂はこれにて」
 頭を下げる瞬間に、ちら、と面白がる光をひらめかせ、小物はそのまま湯屋を出て行った。高虎の眉間の皺がぎゅっと深まる。子供が見れば泣き出しそうな形相であった。
「どうした、高虎。痛むのか」
 冷たい指先が、薄い着物ごし、肩に触れた。「いや」と反射的にこたえた。ああ、だか、うう、だか呻き声に似た声をこぼして、
「……すこしな」
 と、言い直した。そちらのほうが、たぶん、丸くおさまる。
「そうか。夜はずいぶん冷えるようになったからな」
 難しげに眉を寄せる吉継を、高虎は見おろした。
 これが読み取れるようになったのがいつ頃だったか、高虎は覚えていない。はじめは、能面のように情の動かぬ奴だと、なかば小馬鹿にしてもいた。
 ただ表に出にくいだけで、人並みに心を動かしてもいること、気づいてよくよく見れば、それなりに表情も動いていること、たまに見せる微笑みが、おそろしく愛らしいことを知ったときに、おそらく足を踏み外してしまった――のだろう。
 肩に触れた吉継の指が、とどまったまま離れぬのを、高虎はふと訝った。名を呼ぶと、はっと我にかえったように瞬いた。
「おまえこそどうした」
「いや、……高虎は温かいと思って」
 ふらりと視線を彷徨わせ、ぼそぼそ言う。彼の声は常から大きくはないが、口ごもることもあまりない。ごまかすのがうまくないから、そういうときにはたいてい黙ることにしているのだろうと、高虎は思っている。
  透き通るような見た目どおり、吉継は体がつめたいことが多い。病がちであったというのも、そのあたりからきているのだろう。食といわず薬といわず、体を温 めるものをひっきりなしに与えられたというから、吉継の食が細いのもそのあたりが関わっているのではないかと高虎は睨んでいた。
「おまえこそ、体が冷えてしまったのではないのか。早く湯に浸かって、温まってしまえ」
 説教くさく言ってやると、吉継はちょっと笑った。
「……おまえの湯治にきたのに」
「おまえこそ、この時期はいつも風邪をひいてはこじらせるだろう。人ごとではないぞ」
 手早く着物を脱いでしまうと、やはり、さすがに夜風がしみる。鳥肌をたてながら足をつければ、じわりと熱が伝わって、また肌が粟だった。痛めた肩まで漬け込むと、全身がじわじわと温まる心地がする。
 湯をためているのは大きな岩を組んでつくった穴ぼこのようなもので、詰めれば五人ほどが浸かれる大きさがあった。地面から出たときは透明だが、空気に触れると濁るという湯の色は褐色がかっていて、底が見えにくい。
 手足を伸ばすと、むかいの壁にあたる。つっかえるようにして伸びをしていると、吉継に笑われた。
「なんだ」
「いや。むかし飼っていた大きな犬が、よくそういう仕草をしたから、思い出した」
 滑りこむように隣に入ってくる吉継の、まだつめたい肌がかすめ、体が跳ねる。また笑われ、高虎は唇をつきだした。
「俺は犬ではない」
「そう言うな。あの子も勇敢で、賢い子だったぞ」
  水面をはじき、戯れる指先を見つめた。細く、しなやかで、美しい指である。高虎と抱き合うようになって、短く削るようになった爪も、桜の花弁のように整っ ていた。いつもは白く冷えた指が、湯に温められてほんのり色づいているのが、あらぬことを思い出させ、高虎は目を逸らした。
 だから、吉継の指が伸ばされたことにも気付かなかった。
「っ、」
 左肩に、柔らかな肉の感触がある。大仰に肩を跳ねさせて見れば、吉継のてのひらが覆うように触れ、しきりに擦ってくる。
「すまない、まだ冷たかったか」
「い、いや、そんなことはない。どちらかといえば気持ちがい……あ、いや」
「そうか。ならばよかった」
  湯に上気した肌で微笑んだ吉継は、こちらが心配になるほど艶かしい。温められて勢いを増した血が、頭と別の場所に集まるのを感じ、高虎は反射的に膝を折っ た。湯が濁っているから正視しなくてすむと思っていたら、いっこうにそんなことはなかった。むしろ、隠されているぶんだけいろいろと掻き立てられてしま う。
 できるだけ自然に目をそらす。吉継はやはり肩を擦りながら、ときどきくぼみを押してくる。一丁前に按摩でもしているつもりらしい。たどたどしい仕草がまた誘われてでもいるようで、たまらない。
 どれだけのあいだそうしていたのか覚束ないが、いい加減に頭も股間も限界だった。どくどく脈打ってぐらぐらしはじめた頭を覚ましたい。ざば、と勢い良く立ち上がり、
「……厠にいってくる」
 うわごとのように絞り出したところで――視界が暗くなった。
 高虎、と、焦ったような吉継の声だけがわんわん響いていた。

* * *

 頭のうしろに、なにやら柔らかいものがある。枕にしては高さが合わぬ気がする――と、無意識に頬をすり寄せたところで、意識がぽかりと浮きあがった。
 目を開くと、白い着物が目の前にあって、ぎょっとする。背に当たるのはおそらく敷布団で、頭を載せているのは吉継の膝である。
 あわてて起き上がろうとし、体がやたらに重いのに気がついた。
「起きたか。ひとまず、水を飲め」
 上から降ってくる吉継の声と、口元にあてられた竹筒に、誘われたように唇を開くと、冷たい水が入ってくる。無心で吸い付き、竹筒を空にしたころ、ようやくのぼせたのだと思い出した。
「湯中りだろう。脇の部屋に布団があったから、ひとまずひきずってきたが、どこか痛むところはないか」
 額に手をあて、ゆっくり撫でる手を振り払わぬように首を振ると、吉継はほっと息を吐いた。
「……世話をかけた」
「気にするな。俺はいつもおまえに世話になってばかりだから、たまにはこういうのもいい」
 高虎の頭を膝に載せたまま、腕を伸ばして掛布を引き寄せ、器用に高虎の体を覆っていく。こういうところは、妹の世話をし慣れていると思う。
 胸元に手をあて、トントンと叩かれると、体の重みにつられたように、まぶたが落ちた。ぱちぱちまばたきをしている高虎の髪を梳き、てのひらで覆うように撫でてくる。
「しばらく寝ていろ。堅くて悪いが、膝は貸しておいてやる」
「……すまん」
 波のようなまどろみに身をまかせ、目を閉じる。胸元で取られる拍と、撫でられる心地よさに、ゆらゆら揺られながら沈む心地がした。
「……俺も、こんどは誘い方を考えることにする」
 だから、苦笑混じりに呟いた吉継の声に返事をしてやることもできなかった。

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