あだなさけ

 床に転がされているというのに、ひどいめまいがした。目を開けば天井がぐるぐる回る。閉じれば躰が回っているような心地がする。
 腰から下は冷たく痺れているのに、痛みばかりが頭に響いて、それがたぶん、血の流れを滞らせているのだろう。
(いま、何刻なのだろ)
 霞のかかったような脳味噌で、ようやくそれだけ考える。どうでもいい、と思い直す。
(弟分たちでなくてよかった)
 それだけ考えた。
 あとはもう、なにも考えられなかった。

 

* * *

 

 ひとわたり身を清められたあと、どうして主君に報告しようかと、紀之介はそればかりを考えていた。
 相手に乞われ、渋々の体で遣わしたといえ、男色を解さない主君は、こうして男に肌を許した紀之介を厭い、遠ざけてしまうかもしれない。あるいは交渉の具として、この武将に下げ渡してしまうかもしれなかった。
(それも、仕方ないか)
 接待を任せられた小姓に相手の手が付いたとか乞われて譲られたとか、まるで聞かぬ話でもないのがまた憂鬱だった。しかも、今回の限りでは、どうやらひどく相手の気に召したらしい。
 もしそうなったならもう仕方ないが、奥向きに仕える母のことが案じられる。寧々は気を配ってくれようが、他の侍女や小物などはわからない。肩身の狭い思いをするかもしれなかった。
(どちらにせよ、なるようにしかならぬ)
 腹を据え、紀之介は引き留められた屋敷を辞して、ひとまず自宅に戻ることに決めた。妹が起きているかどうかはわからないが、適当に言い繕えば、あえて尋ねることはしまい。
 時刻はまだわからぬものの宵は深くみえ、武家町は灯の消えた家も多く、静まり返っている。これでは城は閉められているだろう。
 屋敷のうちでは気を張って、何もないふうに装っていたが、道を歩くとさすがにこたえた。まっすぐに歩けず、塀や垣を伝ってようよう進む。
 自邸がみえたころには、ぐらぐらと回る視界で立っていることすら危うくなっていた。あとすこし、と踏み出した瞬間、グラリと膝が崩れた。
 ああ、倒れる、と紀之介は働かない頭で考えた。身体をひねり、肩から落ちるようにするくらいで精一杯だった。
「紀兄!」
 裏返った呼び声がし、予想に反して柔らかいものにぶつかった。ほう、と長い吐息が上から落ちてくる。見上げると、なにやら難しい顔が間近にあった。
「……於虎」
 どうしてここに、と紀之介は働かない頭で考えた。
「紀兄、怪我は」
「いや、」
「そうか」
 ほ、とまた吐息をこぼし、紀之介を起こしながら、虎之助はちょっと呻いた。見れば、紀之介を抱きとめたときに臑を地面で擦りむいたのだろう、砂を噛んで血が滲んでいる。
「……とりあえず、うちに来い。傷の手当てをしないと」
「いや、……うん」
 なぜかすこし慌てた体で、虎之助はがりがりと頭を掻いた。虎之助の肩を手がかりに、ゆっくり立ち上がる。ふらついた身体をさっと支えた虎之助の身体が、もう自分と変わらないほどになっていたことに、すこし驚いた。
(そういえば於虎も、もう十四だった)
 なぜこんな時間に、こんなところに、と聞きたいことはいくらもあったが、どれも億劫で、とりとめのないことばかり考える。おぼつかない紀之介の足取りを支えながら、ようやく自邸の門までたどり着くと、いささか乱暴に虎之助が木戸を叩いた。
 ややあって、向こうから誰何の声があった。紀之介が応えると、慌てて木戸を開く小物の姿がみえた。
 断っても頑として手を退けない虎之助に支えられながら木戸を潜ると、糸が切れたように腰が砕けた。
「紀兄!」
「若様!」
 虎之助の肩からずり落ちかけた紀之介を、小物がしっかりと抱きとめた。実家から付けられた小物は幼い頃からの馴染みで、兄とも慕った気安い相手ではあったが、いまはその大きな手がおぞましい。とっさに払いのけようとした紀之介はしかし、軽く抱き上げられ、身動きを封じられてしまった。
「そちらの……虎之助の、傷の手当てを」
 はい、といらえを得て、紀之介は強く歯を噛みしめ、意識して手足を強ばらせた。声が震えなかったのは、上出来だったと思う。大きな屋敷でもないのだから、ほんのわずかばかり我慢をしていれば、すぐに解放されるはずだった。後ろをついてくる虎之助の不審げな視線は、気付かないふりをした。

 

* * *

 

 虎之助の傷を拭った手桶を持って、小物が部屋を出て行くと、気詰まりな沈黙が降りた。
 敷かれた床に俯せに転がり、紀之介はじっと目を閉じていた。身体は疲労の極みに達していて、眠りたいのに眠れない。ちらちらとこちらを気にしている様子の虎之助が気になって仕方がなかった。
 そもそもどうして、虎之助がここにいるのか。あえて考えないようにしていた疑問が、またむくむくと頭をもたげてくる。
「……於虎」
「ん」
 くぐもった声で呼ぶと、それでも虎之助は、少しあわてた様子で反応した。
「おまえ、なんでここにいた」
 顔を上げずに訪ねる。息を吸い込んで止まった虎之助の顔を、見たくない気がした。
「……市松から、聞いて、その……心配で」
 ぼそぼそ呟いた虎之助の声を捕らえ、紀之介は敷布に大きくため息を吸い込ませた。
 この様子では、何のために遣わされたかも気付いたに違いない。
「佐吉は」
「いや、市松と俺だけ」
「そうか」
 もう一度、今度は安堵のため息をつく。佐吉に知れたら、主君に当たれぬぶんだけ、どれほど荒れるか知れたものではない。
 ずるずるとにじり寄ってきた虎之助が、ためらいがちに紀之介の肩に触れた。びく、と跳ねた肩に驚いて、すぐに引く。すこしだけ顔をずらして目をやると、にじったせいで傷でも痛むのか、眉間に皺を寄せて紀之介を見下ろしていた。
「その、……ごめん」
「……いや、いい」
 億劫な身体を転がし、天井を仰ぐ。
 市松はああみえて、細やかに気の回る男である。他の小姓たちにはなんとか言い繕ってくれているに違いない。ひとまずは安心したところで、虎之助を見る。
「わたしは大丈夫だから。もう休め」
「うん……」
  何か言いたげな様子で、虎之助は言葉を濁し、視線を泳がせた。
  不安なことがある時の虎之助の癖で、紀之介はふうっと何度目かの息を吐く。
「……紀兄。いっしょに、寝たい」
  眉尻を下げ、駄目か、ときいてくる虎之助の顔が、大きく伸びた図体に似合わず幼い。
  思わず反射的に身を避けて、苦笑した。紀之介は弟分たちの、こういった素直な甘えに弱かった。近ごろずいぶん大人びてきた弟分たちは、甘えてくることも少なくなっていて、一抹の寂しさを感じることもあったのだ。
  遠慮がちに潜り込んでくる虎之助に掛け布をかけ直してやり、そのまま抱え込む形で腕を落とすと、胸元で猫のように落ち着きどころを探していた虎之助が、こちらをうかがってくる。
「……疲れた」
 長い吐息とともに、声をのせずに吐き出した。
 背に廻った虎之助の腕が、いたわるように撫でてくる。とたんに強ばった背に気付いて引いた手に、紀之介はごめん、と詫びた。
「謝らなくていいよ」
「うん。……」
 目を合わせなかったことに、きっと気付かれている。
 想いを──おそらくは恋情を、彼からむけられていることには、紀之介もいつからか気付いた。
 好意も嫌悪もあけすけに隠さない佐吉よりは控え目ではあったが、虎之助の気性は隠しごとをあまり得意にしなかった。それでも、幼いころにはよくある、憧れをひとつ踏み抜いたようなものだと紀之介は思っていた。
 それが色をもったものだなどと、ついぞ思っていなかったのだった。
(まずい、んだろうな、これは)
 いままで紀之介にはなかったその色を、虎之助は嗅ぎつけている。それは彼がずっとこころに押し込めていたもので、なにか、箍のようなものを外してしまったように思う。こうやって、いつもと変わらない風を装ってみても、身体だけでなく、変わってしまったものに、きっと気付いてしまったに違いない。
 たとえば、虎之助から求められたときに、流されずにやりすごせるか、紀之介にはすこし自信がなかった。昨日までの自分ならば、笑い飛ばすなり、怒るなりしてかわせたかもしれなかったが。……
 自棄じみた思いになるのは、まだこころが乱れているせいだ──そう言い聞かせ、紀之介は目を閉じた。明日になれば、秀吉へ報告にゆかなければならない。物言いたげな目を向けてくるだろう佐吉の追求も、うまくかわさなければいけなかった。何を考えるのも億劫で、眠ってしまいたかった。
 だから──「悔しい」と何度も囁く虎之助の言葉は、聞こえない振りをした。

 

* * *

 

 夜明けより前に目が覚めた。
 ずっと抱いていてくれた──というよりは、寝返りをうつ体力も残っていなかったのだろう、紀之介の腕からすこし顔をあげ、疲れ切った寝顔を、虎之助は盗み見た。
 市松から、紀之介が(おそらくそういった行為を前提に)遣わされたのだと聞かされたときは、いてもたってもいられずに飛び出した。その後で後悔した。迎えにいって、どうする。おそらくは疵をつけられた紀之介のこころにつけ込むような、そんな器用な真似ができたなら、思い悩んだりはしなかった。
 それが、ひどい思い上がりだと知った。
 誰かが先に、紀之介に触れた。それが悔しくて仕方がなかった。縊り殺してやりたい。その男の痕を、いますぐ消してしまいたい。腹の中で沸き立つ妬心は、いつも佐吉に感じるむかつきとは比にならなかった。……これほど烈しい想いだと、思ってもいなかった。
 誰かが触れることができたなら、きっと自分も──そう思ってしまう浅ましさが、泥土から湧き出る気泡のように、浮かんでは弾ける。
「なぁ、紀兄。……俺が、手柄をたてたら。そうしたら、俺の……」
 紀之介の黒い眸を見ては紡げない言葉を、閉じられた瞼のうえにそっと投げた。

 息を飲むように震えた睫には、気付かないふりをした。

 

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