月影
ひやりと凍った空気の中を、一頭の馬が駆けてゆく。
馬上には、少年。月明かりに照らされた面差しは秀麗だが、眼光は鋭く、どこかいらだったように馬に鞭をくれると、疾風のように速度を上げた。
少年の名は織田上総介信長。ここ、尾張の城主、信秀の嫡男であったが、周囲の評判は芳しくない。
(ああ、本当に皆、馬鹿ばかりではないか!)
彼の本当の心を知るものは少なく、それが彼をなお苛立たせる。誰からの評価が低かろうと知ったことではないが、城主たる父すらも、己の考えの半分も理解できぬとは情けない。
今日もそれで大喧嘩をし、一方的に飛び出してきた信長だった。
彼はまさしく天才であり、当人もそうであると知ってはいたが、その才こそがもっとも当人を苦しめていることにはまだ考え及ばない。理解を得られぬ苦しみを吐き出すべく、こうして夜道を駆けることしかできなかった。
冷たい風が頬に叩きつけられると、いらだちごと切り取られている気分になる。むき出しの指がかじかんで、手綱を握った感覚もなくなるまで、ひたすらに駆け続けた。
月が美しい。川辺で馬を休ませながら空を見上げ、信長はようやくそのことに気がついた。大きく丸い月は明るく周囲を照らし、川面を輝かせている。
このまま月見でもするかと思い、ふと思いついて再び馬を駆った。
頭に浮かんだのは、人質として幽閉されている竹千代のことだった。
竹千代はまだ七つの子供で、織田と今川に挟まれた弱小大名、松平の嫡男であった。
今川へ人質として送られるところを、義理とはいえ祖父に当たる人間に裏切られ、敵方である織田へと連れ去られてきたのだった。
松平は今川への義理を立て、竹千代は見捨てられた。織田は扱いに迷い、とりあえずは軟禁となったのである。
信長は、この子供が不思議と気に入っていた。なんの役にも立たない人質となってから、切り捨てよという意見を退け幽閉とさせたのも、信長の意志が反映された結果でもある。
ここで松平を完全な敵とするのは下策だという打算もあったが、それ以上に信長を動かしたのは、たった六つの子供の目だった。
裏切りによって敵地に送られた時も、父に見捨てられた時も、ほんの子供でしかない竹千代は、決して泣きわめいたり動揺したりする様子を見せなかった。その負けん気に動かされたのだと信長は思っている。
その子供のことを思い出したのには、これといった理由もなかった。
ちょっと竹千代を連れ出してやろう。
そんな、ささやかないたずら心で、信長は竹千代の幽閉先へと向かった。
いつもならば、堂々と門をくぐって大声で人を呼ぶのだが、今夜は遊んでみたくなった。
塀の外側に馬を止め、自分はひょいと塀を乗り越える。
さしたる警備もしていない寺だ。敏捷な少年一人がそっと忍び込むなどわけもなかった。ましてや信長は、ここには何度も来たことがある。目を閉じていても竹千代の部屋まで歩いていける自信があった。
庭を静かに横切り、廊下を足音をたてずに歩くのはなかなかに楽しい。
竹千代の眠る部屋の障子をそっと開くと、思っていた通り、部屋の主が一人で眠りについていた。
布団の中で健康的な寝息をたてている。信長は自然と口の端を上げ、枕元まで歩くと膝をついて、竹千代を揺さぶった。
「おい、竹千代!」
小声で声をかけると、竹千代はううんと頭をふり、それからぱちりと目を開いた。
「あれ…?信長殿?」
まだ夢の続きをみているような顔をしている。当然だった。ここに信長がいるはずがないのだから。
しかし、信長はそんな竹千代にかまわず彼の体を持ち上げて立たせた。
「竹千代。月見に行くぞ。」
ささやくように断言してやると、目が覚めてきたらしい竹千代は首を傾げた。
「徳千代や与七郎はどこに?」
「お忍びじゃ。」
誰にも告げぬと教えてやれば、竹千代は困惑の色を浮かべた。
子供でも、自分の立場はそれなりにわきまえているものらしい。黙っていなくなれば家臣が困るとわかっているのだ。
その様子に信長は満足と不満の真逆の気持ちを同時に感じた。
竹千代が馬鹿ではないことには満足する。しかし、自分の誘いに即答しないことは不満だ。もちろん、返答は是でなくてはならない。
信長は、返事を待たずに竹千代を抱えあげた。日頃から鍛えている信長にとって、子供一人を抱えて歩くことくらいは難しくない。
竹千代は、行くとは言わなかったが、暴れたり声を上げたりすることもなかった。
来た道をそのまま引き返し、塀の上に竹千代を押し上げると自分も上る。先に飛び降りると、竹千代を引きずりおろして馬に乗せた。
竹千代の後ろに乗って手綱を握る。寝間着一枚で外に出された竹千代は、寒さのために身震いした。
「寒いか?」
「さほどでもない。」
「そうか。」
強情な弟分の言葉に、信長は声を立てずに笑うと、自分の着物を一枚脱いでかけてやった。
「信長殿は寒くないのか?」
「お主が温石代わりじゃ。」
子供の体温が伝わる分、先ほどよりもよほど暖かい。ぎゅうと抱きしめてやると、竹千代は逆らうこともせず、されるがままになる。
「よし、行くぞ。」
気が済むまで暖をとったところで馬を走らせる。二人分の体重を支える馬を思って、先ほどよりはゆっくりと走らせた。
「どうじゃ竹千代、よい月じゃろう。」
声をかけると、竹千代は声にはせずにうなずいた。
「どうした。声が出ぬのか。」
「信長殿はどうして夜中に黙って来たのじゃ?」
どうやらずっとそれを考えていたらしい。
「特に理由はない。今宵は月が美しかったからの。おぬしにも見せてやろうと思ったまでじゃ。」
応えてやったが、竹千代はまた口をつぐんだ。また何か考えているようだ。
「黙って入っていったのはの、おもしろいと思ったからじゃ。この信長がやりたいと思ったからやった。」
今は何の価値もない孤児をどうしようと信長の勝手なのだと暗に言ってやる。こうしてからかってやると、竹千代は必ず言い返してきた。それをおもしろがって、わざとからかう信長だった。
さてどう出るかと信長が竹千代に目をやると、竹千代はじっと信長を見上げていた。
「なんじゃ。」
「…帰る。」
言ったと思った途端に、竹千代は信長を突き飛ばした。子供の力でどうされることもない信長だったが、さすがにこれには驚いた。
思わず手綱を引いてしまい、馬が速度を落とした。それを待っていたかのように、前に座っていた子供が馬から転げ落ちた。
「おい!」
速度を落としたとはいえ、走っている馬から落ちたのだ。焦って馬を止めると、信長も馬から飛び降りる。
転げ落ちた竹千代は、よろよろしながらも立ち上がった。そのまま信長に背を向けて、元来た道を歩き始めたので、ひとまず安心した信長は、馬を引いて竹千代の後を歩いた。
「竹千代、痛くはないのか。」
「さほどでもない。」
「帰り道はわかるのか。」
返事はない。月明かりだけでなれぬ道を歩いて戻れるとは思えなかった。
「どうして帰るなどと言うのじゃ。竹千代はおもしろくないのか。」
そう問うと、やっと竹千代は立ち止まり、振り返った。
「信長殿が信長殿のやりたいことをやるのは信長殿の勝手じゃ。ならば、竹千代は竹千代のやりたいことをやる。」
「なんじゃ、行きたくなかったのか。」
「竹千代は行くも行かぬも言っておらぬ。」
確かに、ほとんどさらってきたようなものだった。しかし、嫌ならその場ではっきりと言うこともできたはずだ。つまり、嫌ではなかったのに違いない。
にも関わらず、馬から落ちてまで帰るというのだから、よほど信長の言葉が気に障ったに違いない。
「それはすまなんだ。しかし、ここまで来たからには、帰るなどと申すな。」
竹千代は、じっと信長を見つめている。なんの感情も浮かばない子供の顔を見て、信長は笑った。
「おれが悪かった。だが、おれはおぬしと月見がしたいのじゃ。誰にも秘密でこっそりとな。嫌か。嫌なら帰ってもいい。」
竹千代の視線が、探るように信長の目をのぞき込んでいるのがわかる。
「答えぬのか、竹千代。」
「嫌ではない。行ってもいい。」
しかし、そういうわりには歩み寄ってこない。理由を察して信長は付け足した。
「もし抜け出したことがばれても、おぬしの家臣の責任にはせぬ。」
用心深い子供は、それを聞くと初めて信長のそばに寄ってきた。
「ならば、行ってやってもいい。」
「よし。」
再び竹千代を馬に乗せ、その後ろに自分がまたがると、ついにこらえきれなくなって信長は大声で笑った。
用心深く、負けん気が強く、後ろ盾などなにもなくとも信長に対して一歩も引かぬ。それどころか、信長をこれほど驚かせる存在もなかなかない。
一人で馬上にあった時のいらだちも冷たさも消してしまった、暖かな固まりを胸に抱え、信長は馬を駆けさせた。
静かな月夜に、信長の笑い声が響く。その夜は、竹千代と信長の、秘密の夜となった